3.5次元の世界 村井さだゆき

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    とは言え──というのはポケモンGOの続きの話である。

     

    ポケモンGOやIngress(イングレス)のような、現実世界をフィールドにした仮想ゲームにつき纏う問題も今回浮かび上がってきたように思う。

     

    京都の八坂神社では、境内のポケストップに対し削除要請を出す意向だ、というニュースは話題になった。なぜ勝手に神社の境内にポケストップが置かれていたのかというと、ポケGOが、同じNiantic社のIngressのプラットフォームを流用しているためだという。Ingressではゲームの拠点となるポータルをユーザーが申請して登録されるシステムだっため、Ingressのプレイヤーが勝手に申請したポータルがそのままポケストップとして使われたのだろう、と受講生の一人に教えてもらった。
    いずれにしても、本来参拝客のために自由に出入りできる場所となっている神社の境内に、ゲーム目的のプレイヤーが押し寄せてはたまったものではない。
    Ingressでも、勝手に私有地にポータルが設定されていたり、立ち入り禁止エリアにプレイヤーが侵入したりという事件が起こっていたようだが、これらはプレイヤーが非プレイヤーにかける迷惑だ。
    逆にプレイヤーが被害者となることもある。ここ円山町近くの道玄坂では、スマホ画面を見ていた女性が盗撮と間違われて腕を掴まれるという事件が起きたらしい。もちろん暴行した男のほうが悪いのだが、これもまたプレイヤーなら当たり前の行動が、これまでの一般常識的な行動とは違っていたために、誤解が生まれて起こった悲劇だとも言える。

     

    また、モンスターを集めるだけのポケモンGOではまだ聞かないが、敵味方に分かれて遊ぶIngressでは、それがリアルでのプレイヤー同士の諍いの火種になることもある。
    狙ったポータルに何度も攻撃をしかけていたら、そのポータルのガーディアンらしき人物にリアルで恫喝された話や、近所の散歩パターンがばれたために、敵のプレイヤーらしい人物にストーカーまがいの追跡をされたというような話。敵味方両陣営が参加するオフ会を提案しておきながら、それをすっぽかして、その隙に留守になった敵のポータルを奪うという事件、などなど。

    これらについてここで苦言を呈するつもりはない。というより、僕らにとって、この手の話はむしろ大好物だ。

     

    上に見るように問題のタイプは二つあって、一つは、プレイヤーと非プレイヤーの間で、良識的行動の範疇に齟齬が生じていることから起きる騒動。もう一つは、一部のプレイヤーがゲームの関係性を現実に持ち込んでしまったために起こるプレイヤー同士の揉め事である。

     

    ポケモンGOやIngressのような地図ゲーは、現実世界にもう一つ被膜をかぶせてそこをゲームフィールドとして遊ぶゲームだ。その時、プレイヤーから見た現実の街は、その被膜を加えた多層的な世界として認識し直される。空間という3次元に見えない次元を加えた世界──

     

    いわば3.5次元の世界。

     

    2.5次元とはアニメ、漫画など二次元のキャラクターを生身の人間が演じる舞台などを指す造語だが、ここでいう3.5次元も感覚的にはそれに通じるところがある。虚構(フィクション)が現実(3次元)になって目の前に現れる感じ。
    違うのは、地図ゲーを使った3.5次元が、日常(3次元)と常に隣り合わせに存在し、ふいに見えたり見えなかったりすることだ。3次元を仮に一本の数直線として描いたときに、虚軸を加えた複素平面が常にべたーっと寄り添っている世界観、といえば分かり易いか……いや、分かり難いか。(何かそんな世界を『ウルトラQ 〜dark fantasy〜「右365度の世界」』で描いた気がしないでもない)

    それは虚構(フィクション)というより、感覚的には新しい現実(リアル)だ。

    これは、考えようによっては、かなり──怖い。

     

    ともかくこの3.5次元の世界は、見えている人(プレイヤー)と見えていない人(非プレイヤー)との間での現実認識に齟齬を生じさせる。見えている人はそれが見えているのが当たり前だという行動をとるが、見えていない人からすると何をやってるんだとなる。それが一つ目の問題。
    二つ目の問題は、見えている人同士であっても、それまで身に着けてきたリアル(3次元)でのルールと、新しい3.5次元を含む世界でのルールがぶつかり合う局面があるということだ。ここでいうルールは、コード(社会規範)と言い換えてもよい。

    どちらの場合も、通常、ゲームの理屈を現実に持ち込んだほうが悪いとされる。今はまだ、現実の社会秩序のほうが圧倒的に大きく堅固だからだ。だが、今後ともそうだとは限らない。古いコードと新しいコードがぶつかり合う場には、何かドラマの種があるはずだ。僕らはそれを見つけたい。

     

    技術革新によって生まれた新しい状況に、現実のルール作りが追いつかないということはママ起こる。特にデジタル社会ではそれを頻繁に目にする。そこには新しい権利の主張と既存の権利の保護の問題など、簡単に解決できない課題を孕んでいる。この話はいずれまた時間ができたときに考察したい。

     

    ともあれ、この先この3.5次元の世界が、ラジオやテレビ並みのメディア空間として発展していったとき、何が起こるか。ポケモンGOで使われているAR技術がさらに発展していったとしたら……。
    ARといえば、鳴り物入りで登場した技術だった割りに、その後面白い使い方が見つからず、イマイチぱっとしない印象だったが、ポケモンGOのヒットはカンフル剤になるかも知れない。もしAR専用眼鏡でも開発されたら、それはもう磯光雄さんの『電脳コイル』の世界だ。
    視覚による認知は3.5次元の世界をよりリアルなものとするだろう。それによって虚構と現実の境界線がさらに曖昧になっていったとき、人間の「心」がどんな風に変化していくのか──
    怖いこと。
    滑稽なこと。
    切ないこと。
    様々なドラマが起きると思うと、興味は尽きない。


    『シングストリート』 最近見た青春。   田中幸子

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      最近「シングストリート」を見た。

      実は他の作品を見たかったのだが、

      既に満席だったので、

      観るつもりはなかった本作へ。。。。。

       

      あの「はじまりのうた」の監督だと知らずに鑑賞。

      見ているうちに、その作風で、あれ、これってもしかして…?ああ、やっぱり、と納得した。

      まぁとにかくよくできた青春音楽映画であり、おもいっきり楽しめた。

       

      特に脇役のキャラ設定がおもしろかった。

      この二人のほかにも何人かいるのだが、

      それぞれがいい味を出しまくっている。

       

      また音楽中心の少年青春映画か、と思いきや、もちろんヒロインもちゃんと存在している。

      そのうえ、川端康成ばりの男女の描き方(?)もあったりして。

      80年代あたりの音楽と少年青春ものに興味のある方はぜひ。

      今回は短めでブログアップ。


      『シン・ゴジラ』をめぐって 高橋洋

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        ゴジラ映画を見ているとふつふつと怒りがこみ上げてくる。映画の出来栄えがどうとか、そういう問題ではない。
        とにかく怒りが湧いてくる。
        自分は以前、『ゴジラの最期』という文章を書いた。

         

        「海の彼方にかろうじてゴジラを追いやってみせることは、断じて報復とはなり得ない。必要なのはゴジラの“死”であり、人々はそのことを犠牲者の霊前に報告しなければならない。(…)ゴジラは核兵器によってしか滅び得ないーこれが論理の究極である。投下されるのは中性子爆弾ではなくーどうにでも理屈をこねてー原子爆弾でなくてはならない。それは米軍から提供されたものであってはならず、日本人の手で製造され、投下されるべきものだ。(…)投下すべき場所ーゴジラが居座り続ける場所は、東京こそがふさわしい。そしてゴジラの最期は、TVカメラで全国民に中継される。国民は固唾を飲んで、ゴジラに死が訪れる瞬間を待つのだ。」(1990年初出 『映画の魔』所収)

         

        やっぱり怒りながら書いている。
        別にゴジラに対して怒っているのではない。
        自分はこの少し後に『ゴジラvsメカゴジラ』のプロットを依頼されて書いた。
        この時のメカゴジラのコンセプトは相手の攻撃能力を瞬時にコピーして変形するロボットだった。ついにゴジラと相見えたロボットはゴジラの放射能炎を浴びてみるみるゴジラ化し、ゴジラもろとも核爆発で吹き飛び、煮えたぎった海だけが残る。それはまるでゴジラの自死のように見える、そんなラストだった。
        これを書いてる時も怒っていた。
        結局、このプロットは採用されなかったけれどそれで怒ったわけではない。
        そういえば、阪神大震災が起きた時、東宝のプロデューサーに「あんたらが真面目にゴジラ映画を作らないからだ!」ってメチャクチャな八つ当たりをしたこともあった。どうも自分はゴジラがらみだと怒るのである。

         

        何で、かくもゴジラ映画は冷静さを失わせるのだろうか?
        それはたぶん昭和29年の第1作目が紛れもない「恐怖映画」だったからだと思う。
        ジャンル映画としての、ホラーとほぼ同じ意味で分類される恐怖映画のことではない。
        そんなものを作る気などなかったのにやたら恐ろしいものへの踏み越えが起こってしまった映画、それが「恐怖映画」なのだ。

        第1作目とほぼ前後して同じくビキニの水爆実験に触発されて作られた黒澤明の『生きものの記録』が、やはり紛れもなく「恐怖映画」であると言えば、この感触は判ってもらえるだろうか?

        (ただし、厳密に言うと『生きものの記録』は放射能恐怖映画ではない。もっと根深くヤバいことを描いた「恐怖映画」なのだ)


        恐怖は怒りを生む。時々、怖いと笑い出すという人がいるんだが、自分はそういう人を信用しない。
        恐怖は、かつて「悲劇」というジャンルがそうであったように怒りを生むのだ。

         

        『シン・ゴジラ』のアプローチは第1作の衝撃を正しく継承する「恐怖映画」だった。
        むろん、その「正しさ」は我々の世代が抱える宿命として、冷静に計算されたものにならざるを得ないのだが。
        多くのゴジラ映画ファンはついに正しいことが正しい人々によってなされたと喝采するだろう。
        その賞賛はまったく当然なのだが、しかし、この「正しさ」は、はるか昔、平成ガメラの時点においてすでに「やっとなされた」ものだったのである。
        すでにハッキリと見えていたはずのヴィジョンがゴジラ映画に適用されるまでにどれほどの時間がかかったことか。
        そこもたぶん、自分がふつふつと怒ったポイントの一つではあるだろう。
        ともかくこの「正しさ」は、とっくに諦めていたゴジラ映画への情熱を(ゆえに自分はハリウッド版などもまるで見ていない)目覚めさせてくれた。伊福部音楽の使い方もまったく正しいとしか言いようがない。伊福部音楽はリスペクトとしてではなく、優れた劇版として使われるべきなのだ。だがーくどいけれどーそれは誰もがとっくに判っていたことなのだ。しかるべき人が時と所を得るのにこれだけの回り道が必要だったということなのだ。

         

        話はまるで変わるが、ゴジラ映画の鬼門と言えば会議シーンである。
        人間ドラマなど関与しようもない途方もない事象がただ次々と起こる、それがアメリカや韓国の映画とはまったく異なる、日本の怪獣映画独自のアンチドラマの醍醐味である。
        だが、この途方もない事象に対して人間がやることが……本当に会議でいいんだろうか?
        『シン・ゴジラ』はこの点でも戦略を感じさせるわけだが……でも、やっぱり会議なの?
        ああ、書き出すと言いたいことが色々出てくる。
        とにかく『シン・ゴジラ』をめぐっては近々、映画B学校ブログでネタバレ全開の座談会を開く予定なので、どうかご期待ください!

        http://eiga-b-gakkou.blog.jp/

         

        で、写真は映画評論家の千浦僚が『シン・ゴジラ』と『狂気の海』は似てると言ってたので。こちら。

         

         

        確かに似た感じの人が出てきてました。

         

        なお、「列車恐怖症」続報。
        問題のスケッチを発見した。

         

         

        ネタメモではなく、日記の方に描いていたのだった。
        何と場所は新宿駅だった…。間違えて覚えてるはずがないと前回ブログで書きましたが、間違えてました。
        なので列車は当然、右から入って来る。みなさん、お騒がせしました。
        1987年6月24日に起こった事故だと判りました。
        日記には「列車の通過後もその白いワンピースが残像のように列車の上に重なって見える」と書いている。リアルだ。


        見えない帝国 村井さだゆき

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          これほど街の様相が一変するとは思わなかった──というのはポケモンGOのことである。

           

          日本での配信開始が、7月22日。
          この日、ちょうど授業があったので、映画美学校に行くのに、夕刻、神泉駅から円山町の狭い裏通りを抜けていったのだが──早速いた。うろ……うろ……とスマホを見ながら歩く人が数名。中には若い女性もちらほら。
          辺りはホテル街。普段、この時刻に見かけるのは、人目もはばかる不倫カップルくらいというこの界隈を、若い女性が一人でじっとスマホを見ながらうろつくさまは新鮮だった。

           

          そこからユーロスペース前の道、Bunkamuraから道玄坂に抜ける坂に出るとさらに驚きの光景が。俯いて歩きながらスマホを見ている人の群れ──もちろん全員がポケGOをやっているとは限らないが、立ち止まったり、ゆっくり動きだしたり、みんなが画面をじーっと見ているさまは明らかに普通じゃない。それがいつものO-EASTのライブ待ちの一群と混然一体となってカオスな状態である。もしポケGOサービス開始のニュースを知らなければ、いったい何が起こってるんだ! と慌てたことだろう。これほど劇的に日本中の街の景色が変わったことは、これまでなかったのではないか。

           

          さすがに2週間以上過ぎてやや落ち着いてきた感はあるが、最初のインパクトは忘れられない。次の週はどのスタジオに行っても、時候の挨拶のようにポケモンGOの話題が飛び交っていた。

           

          さてこのポケモンGO、任天堂はキャラクターのライセンスを貸しているだけで、開発・配信は別の会社が行っていることはご存じだろう。「Ingress(イングレス)」というゲームを作ったNianticという会社だ。
          ちょうど『アニメいずめんと』で、声優でもありイラストレーターでもある天神英貴さんと、同じ牙狼チームでご一緒させていただいたのだが、その天神さんが、楽屋でも食事に行く移動車の中でもずーっとスマホをいじっている。何ですかそれと訊くと、それがIngressだった。

           

          そのとき天神さんに、Ingressについて詳しく教えてもらったのだが、そのシステムはなかなか興味深かった(おかげで今回の話題にもぎりぎりついていけているので、天神さんにはありがとう。天神さん、ポケモンGOはやってますかー)。
          まず、登録するときに青チームか緑チームかを決めて、この両軍の陣取り合戦に参加する。この両チームがポータル(拠点)を奪い合っていて、3つのポータルで囲んだ領域が自軍の領地となる。そういえば、日本がどっちかの陣営に占領された! ってニュースがネットを駆け巡ったことがあったなあ。

           

          ところで「街をフィールドにしたゲーム」というと、自作の歴史の中で思い出すのが、『Dの遺伝子』#07「デスノート」である。
          『Dの遺伝子』は97年フジテレビの深夜に放送していた、いわゆるフェイクドキュメンタリーのていをとったドラマである。
          この回の内容は、渋谷、あるいは新宿のような街をフィールドに、「ダクト」と呼ばれるゲームが密かに流行っているという設定。「ダクト」は携帯電話でネットにアクセスし、街のいくつかのスポットを陣取り合戦のように奪い合っていく。負けるとスタンガンを使った懲罰が待っていて、時には死の危険もある、というもの。

          イメージしたのは「潜水艦ゲーム」のようなもので、魚雷を撃って索敵しながら、敵のスポットを見つけたらそこを奪いに乗り込んで勝負する。同時に自分のスポットを敵に見つかったら、一定時間内に戻って防衛戦を行う、という感じ。

           

          Ingressのことを聞いた時、ああこれだと思った。冗談であの時システムの特許か何かをとっておけば、などと言ったりするのだが、実を言うと陣取り合戦の仕組みが上手く考えられず、作中では明確にしなかったのだった。1対1なら簡単なのだが、複数の人間が同時に参加する仕組みをちょっと思いつかなかったのだ。Ingressは最初にどちらかに登録させることでこの問題をスマートに解決している。このゲームを作った人は頭がいい。

           

          「デスゲーム」を書いた時、僕が意識していたのは、現実の街の裏側にもう一つ、別の何かが蠢いている世界があるかもしれない、という感覚だ。多くのサイバーパンク作品が描くサイバーな異世界は、ネットの沃野にジャックイン(没入)した瞬間に現れる、現実とは別の世界だ。それはそれで素敵なモチーフだが、「デスゲーム」ではそうではなく、現実の街と重ね合わさるように、何かが密かに行われている不気味さを描こうとしたのである。IngressやポケモンGOは、それをARという技術を使うことで現実のものとした感があってとても興味深い。

           

          この「現実と重なり合った仮想空間」の感覚。大げさな話ではなく、人類は今初めてその不思議な感覚を味わっているのだ。
          冒頭で街の様相が一変したと書いたが、実はそうした見た目以上に、世界は一変したのかも知れない。我々は、現実と隣り合わせに、もう一つ別の広大な帝国の領土を手に入れたのだ。次に起こることは、きっとそこで「物語」が展開するだろうということ──我々が考えるべきは、そこでどんな物語を語ることができ、その時、それを享受する人々の心性にどんな変化が訪れるだろう、ということではないか。
          (まあ僕は、天神さんに「村井さんもどうですか?」と言われ「ガラケーなので」と丁重に辞退した通り、ポケモンGOもやってないんですけどね)



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