「ビョークのネズの木」考 村井さだゆき

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    授業の一環で受講生にこの映画を紹介したので、少しフォローしておきたい。
    おそらく大半の人が観た後ポカーンとするであろう、難解な芸術作品──のように見えるこの映画のどこをどう楽しめばいいのか、という話である。

     

    まずこの作品は、グリム童話の一編「ネズの木」を題材とした“アイスランド”映画である、ということを踏まえておこう。グリム童話は、アンデルセンの童話などとは違い、グリム兄弟がゼロから創作したものではなく、主にドイツに伝わる民間伝承を収集、それを兄弟が読み聞かせるお話として分かり易く形を整えたもの、ということはご存じだろう。
    このような童話の映画化というと、一つには、例えば「スノーホワイト」のように最新のSFXを駆使してハイファンタジー(絵空事)に仕上げる方向と、もう一つは「青髭」(2009年)のように、リアルな設定によって物語に現実味を持たせるリアル化指向とでもいうべきやり方が思い浮かぶ。


    この「ネズの木」はというと、方向性としては一見、リアル化指向のように見える。美しいアイスランドの大地に、現実にいたであろう小屋の住人。魔法の馬車もお姫様も怪物も出てこない。そこで展開するのは、先妻の子と継母の軋轢という現代でもありそうなドラマ。正直私も途中までは、これなら現代劇として描くことも可能だろうと思って観ていた。

     

    ところが、「妹」が死んだ母親を幻視する辺りから、様相が変わる。

     

    姉妹の母は魔女の疑いをかけられ、村人に石を投げられて死んだという。〈魔女の資質〉という忌むべき業を、妹だけが受け継いでいる。

    それは、現代人である我々の目から見ると、「妹」の妄想に過ぎない。実際、「妹」が嬉々として母親のことを語るのに対して、隣に座る義理の甥にはその姿は見えない。

    現代劇と様相を異にするのはそこからだ。「妹」の幻視に対して、「姉」は否定するどころか、少し羨ましがっているようにも見える。また自身も今の夫を魔法によって繋ぎとめようとしている。「姉」だけではない、姉の「夫」もまた魔法の存在を否定しない。あたかも風や温度が存在するのと同じように、魔法もまた〈在る〉のだということを当たり前のように受け入れている。

     

    舞台が「スノーホワイト」のような絵空事世界なら、登場人物が魔法を信じているのは当たり前だ。その作品世界では魔法は事実として存在するのだから。
    ところが、「ネズの木」ではその辺りがはっきりしない。上述のようにこの作品の舞台作りはリアル化指向に見える。リアルな世界で、登場人物が魔法を信じていることの違和感。それがこの作品のとっつきにくさの正体であり、また一番の魅力でもあると私は考える。

     

    ここからが本題だが、話が長くなるのでまた今度。

     

    画像は小田原城前のイヌマキの古木。

    ネズの木は「百槇(びゃくしん)」ともいい、槇の字を使うくせにヒノキ科なのでこれとは違うけれど。


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