「ビョークのネズの木」考その2 村井さだゆき

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    やっとその続きです。

     

    ところで前回、童話の映画化には大きく二つの方向──最新のSFXを駆使してハイファンタジーに仕上げる方向と、リアルな設定によって物語に現実味を持たせるリアル化指向の二つが考えられると書いた。
    大雑把に言って前者はフィクションラインが高く、後者は低い。それゆえ、前者は「子ども向け」、後者は「大人向け」のように見られがちである。また、後者は時に、「本当は怖い○○童話」系の作品という言われ方をすることもある。
    だが、実のところこの二つは、どちらも現代人の感覚で理解できる感情を描いているという点において、大差がない。

     

    余談だが、フィクションラインが高いものが一般に子ども向けと見られるのは、何も子どものほうが受容能力が高いからではない。話は逆で、成長に応じて、「大人はフィクションラインの高いものを楽しんではいけない」というコード付けをされるのである。だから、「これは大人も見ていいアニメ」などとしるし付けをしてやるとコロッと靡いたりもする。ことほど左様に「大人」とは厄介なのだ。

     

    それはともかく、童話の映像化におけるハイファンタジー化も、現実路線のリアル化指向も、描いている感情の質について大差がないというのは、それらがすべて現代人に共感を得るために作られているからである。「本当は怖い〜」の本当とは、「現代人の感覚に照らして物語を読み直すと」という意味に他ならない。そのことは、ハイファンタジー化するやり方を採った作品でも何ら変わるところはない。魔法が現実に存在し、魔女や魔物が跋扈する世界であっても、登場人物の行動自体は、我々の常識に照らしても納得のいくものとして描かれているからだ。もしそうなっていなければ、その作品は失敗作の烙印を押され、脚本家は無能の誹りを受けるだろう。

     

    さて現代人に理解し得る感情を描くためには、まずその世界の物理法則を観客に理解させておかなければならない。魔法が在るなら、在ると明かしておく。ないならないと決めておく。そこがはっきりしないと、観客は登場人物がなぜそのような行動を取るのか、理解できなくなってしまう。

     

    「ネズの木」が特殊なのは、そこが曖昧模糊としていてはっきりしない点だ。果たしてこの世界では、魔法は存在しているのだろうか。

     

    死者の魂は鳥の心臓が運んでいく。
    切れない紐を結んでおけば戻ってこられる。
    髪の毛を衣服に縫い付けておけば男の心を繋ぎとめられる。
    etc.

     

    なるほど、そのような魔力の存在を、登場人物が信じていることは分かる。だが、その存在を裏付ける物理的証拠は無きに等しい。「妹」の見るビジョンは幻視にすぎないし、「姉」を追いかける夫は、本当に愛してしまったのかもしれない──この映画で起こっていることは、スーパーナチュラルな力の介在がなくても、理解可能なことばかりなのである。

     

    これは一見、リアル化指向の作り方そのもののように思われる。スーパーナチュラルな力を排して、物語内で起きる出来事を現実の物理法則内で可能なことに交換していく。現実との誤差を出来るだけ小さくすることで、物語の「リアリティ」が増す。それによって「大人が見てもいい」というしるし付けが出来る仕組みだ。

    しかし、一般的なリアル化指向の作品では、登場人物は、ありもしない魔法を盲目的に信じたりはしない。また、物語の展開が、魔法の存在を前提とした流れにはなるはずもない。せっかく「リアリティ」のためにスーパーナチュラルな事象を排したのに、それでは意味がないからだ。
    仮に登場人物が信じている“魔法”があるとすれば、たいていの場合それはその作品世界の中では実在しているし、そのことが物理的な証拠とともに描かれる。「空飛ぶ絨毯」が在る世界なら、登場人物が実際にそれに乗って空を飛ぶシーンがどこかで描かれるだろう。逆に「魔法のランプ」が無い世界観で話を進めるなら、アラジンはランプの精の代わりに、有能な人間の呪術師を雇ったりして物語の帳尻を合わせるに違いない。
    魔法が在る世界では在ることを前提とした行動を、魔法が無い世界では無いことを前提とした行動をとることが、登場人物には要請される。このように、登場人物の行動が、その世界の法則と照らし合わせて理に適っていることが、感情移入の条件だ。

     

    映画「ネズの木」の場合、魔法が在るか無いか分からない世界で、登場人物は魔法を使ったつもりになっていて、それが物理的に働いているのかどうかは、観客には判らない。こんなものを観客に見せてどうしようというのだろう。

     

    ところで、映画のストーリーは、巷間伝わる「グリム童話のネズの木」とは、ところどころ違っている。継母による「息子」殺しと、その「息子」が鳥になって戻って来る、という骨格は同じだが、継母は死の罰は受けないし息子も蘇らない。その他、細部の設定もいろいろ違うし、そもそも死んだ母を幻視する「継母の妹」のエピソードはグリムの原作にはない。彼女や「夫」が語る寓話も含めて、アイスランド版ネズの木を原型に、他のアイスランド民話をいくつか折衷して作ったような印象を受ける。

     

    これはどういうことか。

     

    そもそもグリム童話自体が、中世ヨーロッパの民俗社会に広く分布していたさまざまな説話を、ドイツ語によるドイツ民族のための物語として、解り易い形に整えていったものという側面を持つ。言わば、ヴァリエーションに富んだ中世の精神宇宙を、近代の鋳型で押し固めて、〈ドイツ国民〉の読み物として提示し直したのである。
    童話のそのような一面は、例えばフィンランドのカレワラや、明治初期に整備された日本の童話にしても、事情は同じである。近代、〈国家〉が成立する際に、我が国にはその精神的な土台を形作る物語があったのだ、という〈ファンタジー〉が必要だったのだ。我々に馴染みのある「桃太郎」が、吉備津彦をモデルとした大和朝廷による「夷を以て夷を制する」歴史を反映しているのだ、という指摘を出すまでもない。同じ物語を共有している範囲が、精神的な意味での国家の境界線となるのだ。
    その時、豊かなヴァリエーションは、亜流の一言で切って捨てられていく。

     

    明治の頃、そのような民話・説話の近代化・画一化と並行して、妖怪博士井上円了による無知蒙昧な国民の教化・啓蒙と迷信の駆逐があったと考えると解り易いが、その流れがひと段落した頃に登場するのが、柳田国男による「民俗学」である。

     

    やっと話が佳境に入ろうというところだけれど、また長くなったので、今日はここまで。

     

    (つづく)



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