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    • 2016.12.22 Thursday
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    『シン・ゴジラ』をめぐって 高橋洋

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      ゴジラ映画を見ているとふつふつと怒りがこみ上げてくる。映画の出来栄えがどうとか、そういう問題ではない。
      とにかく怒りが湧いてくる。
      自分は以前、『ゴジラの最期』という文章を書いた。

       

      「海の彼方にかろうじてゴジラを追いやってみせることは、断じて報復とはなり得ない。必要なのはゴジラの“死”であり、人々はそのことを犠牲者の霊前に報告しなければならない。(…)ゴジラは核兵器によってしか滅び得ないーこれが論理の究極である。投下されるのは中性子爆弾ではなくーどうにでも理屈をこねてー原子爆弾でなくてはならない。それは米軍から提供されたものであってはならず、日本人の手で製造され、投下されるべきものだ。(…)投下すべき場所ーゴジラが居座り続ける場所は、東京こそがふさわしい。そしてゴジラの最期は、TVカメラで全国民に中継される。国民は固唾を飲んで、ゴジラに死が訪れる瞬間を待つのだ。」(1990年初出 『映画の魔』所収)

       

      やっぱり怒りながら書いている。
      別にゴジラに対して怒っているのではない。
      自分はこの少し後に『ゴジラvsメカゴジラ』のプロットを依頼されて書いた。
      この時のメカゴジラのコンセプトは相手の攻撃能力を瞬時にコピーして変形するロボットだった。ついにゴジラと相見えたロボットはゴジラの放射能炎を浴びてみるみるゴジラ化し、ゴジラもろとも核爆発で吹き飛び、煮えたぎった海だけが残る。それはまるでゴジラの自死のように見える、そんなラストだった。
      これを書いてる時も怒っていた。
      結局、このプロットは採用されなかったけれどそれで怒ったわけではない。
      そういえば、阪神大震災が起きた時、東宝のプロデューサーに「あんたらが真面目にゴジラ映画を作らないからだ!」ってメチャクチャな八つ当たりをしたこともあった。どうも自分はゴジラがらみだと怒るのである。

       

      何で、かくもゴジラ映画は冷静さを失わせるのだろうか?
      それはたぶん昭和29年の第1作目が紛れもない「恐怖映画」だったからだと思う。
      ジャンル映画としての、ホラーとほぼ同じ意味で分類される恐怖映画のことではない。
      そんなものを作る気などなかったのにやたら恐ろしいものへの踏み越えが起こってしまった映画、それが「恐怖映画」なのだ。

      第1作目とほぼ前後して同じくビキニの水爆実験に触発されて作られた黒澤明の『生きものの記録』が、やはり紛れもなく「恐怖映画」であると言えば、この感触は判ってもらえるだろうか?

      (ただし、厳密に言うと『生きものの記録』は放射能恐怖映画ではない。もっと根深くヤバいことを描いた「恐怖映画」なのだ)


      恐怖は怒りを生む。時々、怖いと笑い出すという人がいるんだが、自分はそういう人を信用しない。
      恐怖は、かつて「悲劇」というジャンルがそうであったように怒りを生むのだ。

       

      『シン・ゴジラ』のアプローチは第1作の衝撃を正しく継承する「恐怖映画」だった。
      むろん、その「正しさ」は我々の世代が抱える宿命として、冷静に計算されたものにならざるを得ないのだが。
      多くのゴジラ映画ファンはついに正しいことが正しい人々によってなされたと喝采するだろう。
      その賞賛はまったく当然なのだが、しかし、この「正しさ」は、はるか昔、平成ガメラの時点においてすでに「やっとなされた」ものだったのである。
      すでにハッキリと見えていたはずのヴィジョンがゴジラ映画に適用されるまでにどれほどの時間がかかったことか。
      そこもたぶん、自分がふつふつと怒ったポイントの一つではあるだろう。
      ともかくこの「正しさ」は、とっくに諦めていたゴジラ映画への情熱を(ゆえに自分はハリウッド版などもまるで見ていない)目覚めさせてくれた。伊福部音楽の使い方もまったく正しいとしか言いようがない。伊福部音楽はリスペクトとしてではなく、優れた劇版として使われるべきなのだ。だがーくどいけれどーそれは誰もがとっくに判っていたことなのだ。しかるべき人が時と所を得るのにこれだけの回り道が必要だったということなのだ。

       

      話はまるで変わるが、ゴジラ映画の鬼門と言えば会議シーンである。
      人間ドラマなど関与しようもない途方もない事象がただ次々と起こる、それがアメリカや韓国の映画とはまったく異なる、日本の怪獣映画独自のアンチドラマの醍醐味である。
      だが、この途方もない事象に対して人間がやることが……本当に会議でいいんだろうか?
      『シン・ゴジラ』はこの点でも戦略を感じさせるわけだが……でも、やっぱり会議なの?
      ああ、書き出すと言いたいことが色々出てくる。
      とにかく『シン・ゴジラ』をめぐっては近々、映画B学校ブログでネタバレ全開の座談会を開く予定なので、どうかご期待ください!

      http://eiga-b-gakkou.blog.jp/

       

      で、写真は映画評論家の千浦僚が『シン・ゴジラ』と『狂気の海』は似てると言ってたので。こちら。

       

       

      確かに似た感じの人が出てきてました。

       

      なお、「列車恐怖症」続報。
      問題のスケッチを発見した。

       

       

      ネタメモではなく、日記の方に描いていたのだった。
      何と場所は新宿駅だった…。間違えて覚えてるはずがないと前回ブログで書きましたが、間違えてました。
      なので列車は当然、右から入って来る。みなさん、お騒がせしました。
      1987年6月24日に起こった事故だと判りました。
      日記には「列車の通過後もその白いワンピースが残像のように列車の上に重なって見える」と書いている。リアルだ。



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